「印銘」

■家在日本琵琶湖之東 - 亀文堂

印銘(いんめい)とは、金工が、自らの作品に、自作を証明するために印判を押したような形状の銘を刻したもの。

画像の鉄瓶の印銘「家在日本琵琶湖之東」は、蝋型鋳金術の技法を伝えた、

初代・波多野正平(1813年―1892年・能登川/現、東近江市)のものです。

波多野正平は、京都市北区出身で、15歳で当時鋳金術の名工として知られていた「龍文堂」の四方安之助

(安平・1780年ー1841)に入門し鋳金術を学びました。そして、京都で独立したが、湖辺の煙花を慕い能登川に

永住、「亀文堂」と号し、独創的な作品の数々を制作しました。

なかでも細工を施した掻蝋鉄瓶の発明は、美を与えたものとして高く評価されました。

■龍文堂

「鉄瓶」という名称が初めて使われたのは、煎茶が始まった1700年末頃、初代、龍文堂が蝋型で鉄瓶を造り

名声を博したとの記録があります。大西浄雪や奥平佐兵衛など、茶道の釜師も家元好みの鉄瓶を造り始めています。

当時、京都で盛んに鉄瓶が造られたことが伺えます。

龍文堂は、初代が四方龍文と称し、明和元年(1764年)頃、京都で蝋型鋳造によって鉄瓶を造る事を創案しました。

二代、龍文堂の門人に近江の亀文堂及び、京都の秦蔵六があり、それぞれの歴代が名品を残しています。 

 

龍文堂 -

初代 四方龍門      1735年~1798年

二代 四方安之助 龍文堂 1780年~1841年 門人に京都の秦蔵六、近江の亀文堂、

■大西家 

・大西浄雪(おおにし じょうせつ):江戸時代後期の京都の釜師で、大西家の十代目です。

浄雪は、大西家一番の多作といわれ、釜肌は至って細かく几帳面な姿の釜が多いといいます。

共箱は「三右衛門」「清右衛門」「浄雪」の三種のものがあり、「三右衛門」には「奥平」の印、

「清右衛門」以降は「大西」の印を用いています。 

 

・奥平佐兵衛:七代浄玄の門人で信州飯田の人、姓は奥平、名は保房、通称は佐兵衛、はじめ了雪と号し、

大西家を継ぎ浄元と改めます。大西浄元(おおにし じょうげん)は、江戸時代後期の京都の釜師で、大西家の九代目です。

共箱は「佐兵衛」で、判は「奥平」の印を用いています。 古浄元や浄玄と 区別して「佐兵衛浄元」と呼ばれます。

 

・大西浄寿(おおにし じょうじゅ):大西浄雪の子、幕末から明治初期の京都の釜師で、大西家の十一代目です。

浄寿は、共箱は「三右衛門」「清右衛門」「浄寿」の三種のものがありますが、印は「大西」のみを用います。 

■秦蔵六

秦蔵六:幕末・明治の金工、初代が鉄瓶製作で、龍文堂の門下で鋳金の技術を学びました。

初代、秦蔵六が独立後、江戸期には孝明天皇の御印や将軍・徳川慶喜の黄金印、明治に入ってからは

天皇御璽・大日本国璽(印鑑)の鋳造などを手がけました。「蔵六」の名と伝統の鋳金技法。 

亀文堂、初代・波多野正平の弟